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東京高等裁判所 平成6年(う)200号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役三年六月に処する。

原審における未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入する。

原審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人宮原清貴提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意中事実誤認ないし法令適用の誤りについて

所論は、要するに、「原判決は、原判示第一の殺人の事実について、被告人が被害者である丙の背中の上に馬乗りになった段階で、同人の攻撃を完全に制圧したと認められ、この時点で同人による急迫不正の侵害は終了したとみるべきであると説示して、被告人の行為は正当防衛に当たらないとするのであるが、被告人が丙の背中に馬乗りになった後も、同人の運動能力は失われておらず、被告人は、丙の攻撃の最中に、その侵害行為から自己の生命、身体を防衛する意思で本件に及んだものであり、被告人の行為は、正当防衛に該当するというべきである。仮に、被告人の行為が防衛行為として相当性を欠くとしても過剰防衛が成立する。また、急迫不正の侵害行為がなかったとしても、被告人は丙の攻撃が存在すると誤信して本件に及んだものであるから誤想防衛ないし誤想過剰防衛が成立する。したがって、前記のように説示して、本件について正当防衛等を認めなかった原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令適用の誤りないし事実誤認がある。」というのである。

そこで、以下、記録を精査して検討する。

一  1 関係証拠によれば、丙は、被告人の次男で、昭和五六年頃から被告人のもとに身を寄せ、被告人の年金を当てにして無為徒食し、酒浸りの生活を送っていたが、丙は、粗暴であるうえ酒癖が甚だ悪く、日頃飲酒しては被告人に対し殴る、蹴るなどの暴力を振るっていたものであるところ、本件の際の状況は、以下のようなものであることが認められる。すなわち、

(一)  丙は、本件当日昼頃から水割りにした焼酎を飲み始め、それがなくなると被告人に一升瓶入りの焼酎を買って来させ、更に、焼酎を飲み続けていた。

(二)  午後四時過ぎ頃、被告人は、原判示被告人方の茶の間において、炬燵に入りテレビを見ており、丙も同じ炬燵に入って被告人の斜め右に座り飲酒していたところ、酔っ払った丙は、被告人に対し、「おやじ、なに突張っているんだ。」などと絡み始め、飲みかけの焼酎を被告人の顔にかけ、「てめえなんか殴り殺せるんだぞ。」などと怒鳴り、被告人の右顔面を手拳で殴打するなどした。

(三)  そこで、被告人が丙の手の届かない対面する位置に移ると、同人は、ガラス製灰皿を被告人に向けて投げつけてきたが、右灰皿は被告人の身体に当たらず、後方のガラス窓に当たって一枚ガラスの一部が割れた。

(四)  被告人は、丙の暴行から逃れるため、同人の右脇を通り抜け茶の間に続く廊下から家の外に出ようとしたが、丙は被告人を追いかけてきて、右廊下において、被告人の腰付近を掴み、被告人と揉み合い、両名は隣の八畳の座敷にもつれ込んだ。

(五)  右座敷において被告人と丙が、互いに襟首を掴んだ状態でいるとき、被告人は丙から、「じいさん、先が短いのだから俺が殺してやる。」などと言われ、咄嗟に同人の左くるぶし付近を右足で蹴って足払いをかけ同人を転倒させた。

(六)  被告人は、右のようにして丙を転倒させた後、俯せの状態になった同人の背中に馬乗りになり、丙の背後からその前頚部に自己の右腕を回し、自分の右頬部を丙の左頭部に押しつけ、左手で相手の首に回した右腕を掴み自分の方に引きつけながら、殺意をもって、両腕に力を込めて丙の頚部を締め続けた。その間、丙も、被告人の左手の甲を引っ掻いて傷を負わせたり、両足をばたばた動かしたりしていたものの、その頃、同所において、頚部圧迫により窒息死した。

2 ところで、前記1の(一)ないし(五)の推移をみると、その間になされた丙の被告人に対する暴行が、被告人の身体に対する急迫不正の侵害に当たることは明らかであり、原判決も、「正当防衛の主張について」の項においてこれを肯認しているところ、原判決は、これに次ぐ前記1の(六)の段階において、被告人が丙の上に馬乗りになった時点では、被告人は丙の自己に対する攻撃を完全に制圧し、同人による急迫不正の侵害は終了したとみるべきであると説示するので、この点について、更に考察する。

(一)  原判示の鑑定書によれば、丙の当時の血中アルコール濃度は血液一ミリリットル中に二・七ミリグラムで、その数値から見ても、同人は、当時多量のアルコールを摂取していたことが明らかであり、当時既に六四歳の被告人において、壮年の丙と互いに襟首を掴んで相対峙していた状態で、同人に足払いをかけ容易に同人を転倒させることができたことなどを考えると、本件の際、丙の運動能力は、飲酒の影響により、かなりの程度低下していたことは否定し得ないところである。

(二)  しかしながら、前認定のように、丙は、被告人から馬乗りになられる直前の段階まで、被告人に対し、前記茶の間において、被告人に対し、飲みかけの焼酎を顔にかけ、ガラス製灰皿を投げつけ、顔面を殴打するなど一方的な暴行を加え、更に茶の間から廊下へ逃れた被告人の後を追い、廊下において被告人の腰付近を掴んで被告人と揉み合い、両者が右廊下続きの座敷にもつれ込んだ後も被告人の襟首を掴んで、脅し文句であるにせよ、被告人に対し、「殺してやる。」などという言辞を述べるなど攻撃的な行動に出ているのであり、当時丙の運動能力がかなりの程度低下していたとしても、なお、同人は右時点まで相当の攻撃能力を有していたと推認されるところである。そして、丙が被告人に馬乗りになられた段階で、にわかにその直前まで有していた運動能力を失ったとは認めがたく、現に、同人は、苦し紛れの行動と解する余地が大きいにせよ、その段階においても、前記のように、被告人の左手の甲を引っ掻いて傷を負わせたり、両足をばたばた動かしたりしていたのであるから、それなりの攻撃能力を保持していたと推認するのが、むしろ合理的であり、右段階において、被告人が丙に対し、その背後から馬乗りになるという優位な体勢にあったとしても、被告人において丙の攻撃を完全に制圧したとまでは断じがたい。

(三)  そして、そもそも本件が、丙の一方的な暴行に端を発したものであること、同人は常々飲酒しては被告人に暴力を振るっていたもので粗暴な性癖を有すること、被告人が背後から丙に馬乗りになった以降においても、同人の日頃の粗暴癖から考えて、その行動が自由になれば、同人において、被告人から反撃されたことに激昂して、被告人に対し更に強力な攻撃を加える危惧がなかったとはいえないこと、前記1の(一)ないし(六)の経過は、短い時間のうちに生じた一連の出来事であり、本件において、被告人が丙に馬乗りになった1の(六)の段階の行為のみをその直前のものと分断して考察するのは必ずしも適切とは思われないことなどを考えると、被告人が、丙を転倒させ背後から馬乗りになった後においても、丙の被告人に対する急迫不正の侵害が終了したと速断することはできない。

(四)  したがって、被告人が、丙に馬乗りになった段階においても、同人による被告人の身体に対する侵害の急迫性が存続していたものと認めるのが相当である。

3 そこで、次に、被告人が丙に馬乗りになった以降の被告人の前記1の(六)の行為が、防衛の意思でなされたものであるか、否かについて考察する。

被告人は、本件に及んだときの自己の気持ちについて、「丙との生活にはもうくたびれてしまった。もうこりごりだ。自分を親とも思わないようなできの悪い息子はもう許すことができないので、今日こそ、この機会に、丙の首を締めて殺してやろう、と思った。」(被告人の平成五年七月一日付検面調書)などと述べており、その他の関係証拠をも合わせると、被告人は、本件の際、丙から前記のような攻撃を受けたことに加え、日頃丙から殴る蹴るの暴行を受けていたことに対する憤激の念に駆られて、この機会に丙を殺してしまおうという気持ちを抱いたことが認められるけれども、前に述べたように、丙は被告人から馬乗りになられた後も、その行動が自由になれば、被告人を攻撃する危惧がなかったとはいえず、被告人も、前記のように丙に対する怒りの気持ちについて供述するとともに、「(丙を)締めなければこちらが締められてしまうと思った。」(被告人の公判供述)、「(丙を)離せば自分がやられてしまうと思い、無我夢中で一〇分位圧迫していたように感じた」(被告人の平成五年二月二五日付員面調書)「首を締め始めた以上、途中でやめると今度は自分が殺されると思い…」(被告人の平成五年三月一日付、同月六日付検面調書等)などと述べ、丙の攻撃から身を守るために、同人の頚部を締めるなどの行為に及んだ旨供述しているのであって、被告人の右供述は、そこに至る経緯に照らしても格別不自然ではなく首肯することができるものであるから、被告人が丙の頚部を締めた段階においても、被告人は、丙に対する憤激の念からこの機会に同人を殺害してしまおうという気持ちとともに、丙から、更に、手酷い暴行を加えられることを恐れ、これから自己の身体を防衛する意思をも合わせ有していたものと合理的に推認することができる。

4 したがって、被告人の本件行為は、丙の急迫不正の侵害に対し、被告人が自己の身体を防衛する意思をもってした行為であるという一面を有することを否定し去ることはできないというべきである。

二  しかしながら、被告人が丙に馬乗りになった以降の段階においては、少なくとも同人は、被告人に対し、その手を引っ掻いて受傷させるなどしたものの、右は頚部を締められた丙の苦し紛れの行動と解する余地が大きく、同人による積極的で強力な加害行為はなされておらず、被告人と丙との体勢からいっても、同人が被告人に対し強力な侵害行為に及ぶことは困難な状況にあったことが明らかであり(被告人は、公判においては、丙に馬乗りになった後も、同人から二、三回振り落とされて揉み合ったと述べるけれども、被告人の右公判供述は関係証拠に照らし信用することができない。)、被告人は、右当時、防衛の意思を併有していたとはいえ、同時にこの機会に丙を殺害しようという意思を抱き、前記のように、丙の背後からその前頚部に自己の右腕を回し、自分の右頬部を丙の左頭部に押しつけて丙が首を動かすことができないように固定し、左手で相手の首に回した右腕を掴み自分の方に引きつけながら、両腕に力を込めて頚部を締め続けて同人を扼殺したもので、右のような被告人の行為が全体として著しく相当性を欠くものであることは明らかであり、これが防衛の程度を著しく超えたものであることに疑いはなく、被告人の行為は過剰防衛に当たるというべきである。

三  以上説示したとおり、被告人の本件行為は、正当防衛に当たるとは到底認められないけれども、過剰防衛行為と認めるのが相当であるから、原判決は、これを認めなかった点において事実を誤認したものであり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかである。論旨はこの限度で理由がある。

よって、量刑不当の論旨に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、更に次のとおり判決する。

(犯行に至る経緯及び罪となるべき事実)

原判決の認定した「犯行に至る経緯」及び「罪となるべき事実」のうち、「罪となるべき事実」の第一を次のように改める。「第一 被告人は、平成五年二月五日午後四時過ぎ頃、千葉県市原市平蔵〈番地略〉所在の被告人方茶の間において、炬燵に入りテレビを見ていたところ、同じ炬燵に入り焼酎を飲んで酔っ払っていた丙から、「おやじ、なに突張っているんだ。」などと絡まれ、飲みかけの焼酎を顔にかけられたうえ、「てめえなんか殴り殺せるんだぞ。」などと怒鳴られて顔面を手拳で殴打され、被告人が丙の手の届かない位置に移動すると、同人がガラス製灰皿を身体の近くに投げつけてきたので、避難しようとして丙の右脇を通って廊下に出たが、同人から腰付近を掴まれ揉み合いとなって隣の座敷にもつれ込み、同所において被告人と丙が、互いに襟首を掴んだ状態でいるとき、同人から「じいさん、先が短いのだから俺が殺してやる。」などと言われ、ここにおいて、日頃丙から殴る蹴るの暴行を受けていたことに対する怒りが一気に爆発するとともに、同人の暴行から自己の身体を防衛する意思で、同人の左くるぶし付近を右足で蹴って足払いをかけて転倒させたうえ、俯せの状態になった同人の背中に馬乗りになったが、同人に対する憤激の念とともに、同人が被告人から反撃されたことに激昂して被告人に対し更なる暴行を加える危惧があったため、これから自己の身を守る意思で、丙の背後からその前頚部に自己の右腕を回し、自分の右頬部を丙の左頭部に押しつけ、左手で相手の首に回した右腕を掴み自分の方に引きつけながら、殺意をもって、防衛に必要な程度を越えて、両腕に力を込めて丙の頚部を締め続け、よって、その頃、同所において、同人を頚部圧迫により窒息死させて殺害し、」

(右認定に対する証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法一九九条に、原判示第二の所為は同法一九〇条にそれぞれ該当するところ、判示第一の罪について所定刑中有期懲役刑を選択し、以上は、同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第一の罪の刑に同法四七条但書の制限内で法定の加重をし、その刑期の範囲内で被告人を懲役三年六月に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入し、原審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項本文により被告人に負担させることとする。

(量刑について)

本件は、被告人が、同居していた次男の丙において、酒に酔ったうえ被告人に暴力を振るったことに端を発し、日頃から酒乱で飲酒しては暴力沙汰に及ぶ同人に手を焼いていたことから、丙の攻撃から自己の身体を防衛する意思に合わせ、同人に対する憤激の念を募らせ、この機会に同人を殺害しようと考え、同人の頚部を強く締め付けて窒息死させて殺害したうえ、その死体を被告人方の庭先に埋めて遺棄したという事案である。

右殺人の犯行は防衛行為としてなされた側面を有するとはいえ、その程度を著しく超えたもので、その犯行態様は執拗かつ残忍なもので、生じた結果はもとより極めて重大であり、死体遺棄の犯行も丙殺害後、約一〇日間も同人の死体を自宅に放置した後、密かに自宅敷地内にスコップで穴を掘って埋めるなど陰惨なもので、犯情は悪質であり、被告人の罪責は甚だ重いというべきである。

しかしながら、被害者である丙も、被告人の年金を当てにして無為徒食しながら、日頃飲酒しては父である被告人に暴力を振るい、本件の際も、酒に酔って被告人に絡み、理不尽な暴行に及び被告人の犯行を誘発したもので、丙の落ち度も大きく、同人に対する殺人の犯行は前記のように自己の身を守るためになされたという側面もあること、被告人が本件犯行から約二週間後に実姉等に勧められて自首したこと、被告人の年齢、健康状態、その反省の態度、その他被告人のために酌量することのできる情状もあるので、これら諸般の事情を総合考慮のうえ、被告人を主文掲記の刑に処するのを相当と認めた。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小林充 裁判官 中野保昭 裁判官 林正彦)

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